一番の使いみち


トレビル邸の一室にてたくさんの書棚に囲まれながら、アトスは一つ背伸びをした。
今日はルーブルへ呼ばれる事もなかった。特に問題なく、一日を終えられそうだ。給料も入ったことだし、たまには馬に良いものでも食べさせてやろうか。
そんな事を考えつつ、彼は本を片付けだしていた。銃士にとって終業を意味する、鐘の音が待ち遠しい。

その時、扉を叩く音が二つ聞こえた。アトスは書棚に本を戻しながら、短く返事をする。
返事を待たないうちにドアが開き、部屋の中を隅から隅まで覗き込むように、アラミスが入ってきた。
「アトス、やっぱりここだったか」
後ろ手で扉を閉め、少し安堵した表情を見せる。いつもより声を抑え気味に話している様に、アトスには感じられた。
「ああ、今日はこれといって出動する用もなかったからな。少し読んでいた」
「そう」
アラミスは未だ扉にもたれ掛かったまま。その目は、明らかに泳いでいる。
アトスはようやくアラミスの方を見、その様子に気がついた。
「どうしたのだ?」
「あの……相談があって」
「何だ、話してみろ。何でも聞いてやるぞ」
アラミスと知り合ってから数十日が経っていたが、相談を持ちかけてこられたのは初めてであり、アトスは少し驚きつつも、喜ばしいような気持ちを抱いた。
彼は優しく笑い、書棚へ本を戻す。机の上には、分厚いものからとても細いものまで、十数冊の本が散乱している。
「アトス、誰にも言わないか?」
ためらいがちに、アラミスは切り出す。アトスは思わず、その手を止めた。
「どうした、やけに深刻だな」
「いや、そうじゃないんだ。深刻って言うか……」
頬を赤らめながら、アラミスはアトスのほうへ歩み寄った。窓から入ってくる西日により、その髪は輝きを増す。
「アトスは、初任給で何を買ったんだ?」
「ん?」
無論、アラミスの話が聞こえなかった訳ではない。予想だにしなかった後輩の言葉に、アトスは思考を停止させる。
「恥ずかしいんだけど……さ」
決まりが悪そうに、アラミスは続けた。
「僕はこうして、自分でお金を稼いだの、初めてなんだ。
それで、生活費と貯金と……計算したら、思っていたより余裕があったんだ」
アトスは黙って聞いている。途中、廊下から他の隊員の笑い声が聞こえてきた際、アラミスは反射的に扉の方を向いた。しかし彼らが部屋へ入らず通り過ぎただけであると分かると、重く息を吐き出した。それから、もう一度、書棚の前のアトスに向かった。
「だから、せっかくの初任給で何か買おうかなって思ったんだ」
こんな事アトスじゃないと相談できないよ、と付け足して、アラミスは笑う。
婚約者の仇を討つために男の姿となった、というところまではアトスに話していない。しかし、出身地と、貴族の生まれである事、自身が比較的世間知らずの身の上である事は、既にアトスに話してあった。
「なるほどな」
アトスは手にあった本を戻してから、腕を組んだ。あと四冊程残っている本に、アラミスが手を伸ばす。
「で、アトスはどうしたんだ?」
気恥ずかしい相談を全て吐き出せた事でアラミスは安心したのか、先ほどよりもはっきりした声で尋ねた。
「よく覚えていないが……酒だったかな」
「あー、やっぱりそうか。じゃあ……いいや」
「やっぱりとはなんだ」
アトスはアラミスの肩を、軽く肘で小突き、おどけたように笑ってみせた。
「ううん、もしも本だったら、同じものを買おうかなって、ちょっと思ってた。アトス、本が好きだろ」
「なんだアラミス、君は、お揃いが好きなのか?」
アトスはアラミスの顔を、まじまじと見つめた。
そうじゃないよと、アラミスは両手で本を抱えてから続けた。収納する本は、それが最後の一冊だ。
「アトスやポルトスみたいな、立派な銃士になりたいからさ。だから、参考にしたいと思って」
見習いの銃士は微笑みながら、けれどもしっかりと、そう答えた。
アラミスがこういう話をする時は必ず、瞳に確固たる力が宿る。今回もそうだ。アトスはそう感じながら、優しく返す。
「そうか、誇らしい後輩だな」
アラミスの手から滑るように本を取りあげると、彼はそれを書棚の高い位置へ戻した。

終業を告げる鐘が鳴り、二人は窓の外を見た。パリの街は夕暮れへ向かって、ゆっくりと時を進めている。
アトスに礼を述べてから、アラミスが退室しようとした時だった。
「アラミス」
呼び止められたアラミスは、扉の前で振り返る。きょとん、とした表情で、彼の言葉を待った。
「……やっぱり、酒にしておけ。君は、ちょっと弱いからな」
真面目な顔でそう言われ、アラミスは困惑する。自分が弱いんじゃなくて君が強すぎるだけだろうと、喉まで出かかった時、アトスが言葉を続ける。彼女の心を見透かしたように、続ける。
「酒に強くなったら、もっと俺達と話が出来る。俺達も、もっと君と話したいしな。友達同士、楽しく飲み歩けるようになるのも、大事な事だぞ」
"俺達"とは無論、今はのんびりと休日を過ごしているだろう巨漢の銃士の事を含めている訳で。
「本が読みたいなら、今度俺の家へ来い。どれでも好きなのを貸そう。安くしておくぞ」
彼は悪戯っぽく笑ってみせる。
アラミスは視線を床に落とし、少し虚ろな表情を作った。
僅か数秒の間を置いてから、アトスの前へ戻る。そして、はっきりと告げた。
「アトス、今日付き合ってよ。強くなれる酒。……初心者向けのが良いな」
「よしきた」
アトスは帽子を取り、片目を瞑ってみせる。アラミスの肩をぽんと叩き、扉へ向かった。

アトスの背を見ながら、アラミスは自然と笑みが零れるのを感じていた。それから、少しだけ顔を引き締めて、先輩の後を追った。


後書き
見習いの給料で、貯金できて生活費足りて、尚且つ何か買う余裕があるのかな…とか、そもそもこの時代の人って初任給記念に何か買ったりしてるのか謎だ、とか思いつつ書きました(笑)。何を買わせようかは、ずっと迷いました。
以前、「少女を囲むは黄昏と」を書いた後、りささん「酔いつぶれアラミス&余裕のアトス&ポルトス」という可愛いイラストをいただきまして。この話の「アラミスはお酒に弱い」というのは、そのイラストイメージから考えました。
まだ完全にアトスに心を開いてはいないけど……というアラミスを書きたかったです。表現出来てるのかはさておき、楽しく書きました。(2011.2.6)