その酔いがさめるころ


静寂に包まれているパリの街は、間もなく太陽を迎えようとしている。日の光を浴びて大空を飛ぶ鳥たちは皆目を覚まし、その時を今か今かと待ちわびているのだ。

その路地には、まだ、元気に駆け回る子供も、それを追いかける母親も。そして、馬に乗った銃士もいない。
ただ、一人。
「いててて……ああ、呑みすぎてしまったか……」
片手で側頭部を支えるようにしながら、おぼつかない足取りで進む男。彼はふらふらと路地を歩きながら、一人ブツブツと文句をたれている。
「くそっ、ジュサックめ」
(俺を置いていくとは、なんて奴だ!)
居酒屋で彼の意識が戻った時、そこに一緒に呑んでいた部下の姿は無かった。
「『いいえローシュフォール様、貴方があまりにぐっすりとおやすみになっておられたので、その、起こしてしまっては良くないと思ったんです。へへ』とか言いそうだな、アイツは」
芝居がかった独り言であったため、近くに通行人がいたならば、彼は間違いなく白い注目を浴びていたに違いない。幸いなことに、路地に人の姿は見えなかったが。
(そう言えばアイツ、最近女の影が見えるな……)
その事と自分が置いてきぼりを喰らった事の関連性は、果たしてあるのか、そうではないのか。ふらふら歩く彼に、もちろん知る術は無い。

(ん?)
ぶつくさ言っていた彼の口は止まる。
路地の向こうから、女が一人、歩いてきたのだ。
(こんな時間に、女が一人で?)
自分の様な二日酔いがふらふらと歩くならいざ知らず―そんな事をぼんやり考えつつ、彼の視線は前方から歩いてくる女性に釘付けになっていた。
年の頃は、24,5歳であろうか。
金色に光る、長くて豊満な美しい髪。それは、この後にやってくる太陽の光を受けたら、さぞ輝くであろうと思われた。また女性の顔は、ベールがあってよく見えなかったが、美しく整った顔である事がうかがえた。
そして彼女は、胸元を露出させたドレスを着る女が増えている昨今にしては珍しく、控え目で質素なドレスを身に纏っていた。
上品に、優雅に歩く彼女の手には、カゴが握られている。その中に、丁寧に編まれた桃色の花輪が入っているのが、彼には分かった。
そんな断続的な視線に、女性が気付かない筈はなく。
「あっ……」
彼の数メートル手前で、女性は足を止めた。彼女もまた、彼をじっと見ている。
あまり見つめていたものだから気を悪くしたか。彼は少し焦り、姿勢を正した。
「失礼した。そなたがあまりにも美しいので、見とれてしまっていたのだ」
「まあ……お恥ずかしいですわ。ローシュフォール伯爵」
「何?」
優しく穏やかな声が、彼に降り注ぐ。ベールの向こう側は、羽の様に微笑んでいた。
「そなた、私の事を?」
「もちろん、存じ上げておりますわ。勇敢でいらして、素晴らしい活躍を見せていらっしゃいますもの。
先の、鉄仮面一味の反乱でも、第一線でたいそうご活躍なさったと」
「そうか、いや、それ程でもないが」
容姿のみならず声まで美しい女性にここまで褒められて、気を悪くする男はまずいないだろう。ローシュフォールの心持は、居酒屋を出たときとは全く逆で、とても良くなっていた。むしろ、先ほどまでふらふらしていた事が、なんだか恥ずかしく思えてきた。目の前の女性にそれを、見られてはいまいか。
「しかし、そなたの様な美しい方が、こんな朝方に一人で……」
「ええ、パリの外で所用がありまして。でも、近くに馬車を待たせてあるので、大丈夫ですわ」
「そうか」
太陽が少しずつ昇ってきているとはいえ、まだ暗さの残るパリをたった一人で歩く美女。伯爵は、もし危ないことがあったらと彼女の身を案じたが、彼女の答えからどうやら杞憂に終わりそうであった。
「うふふ、私の事はご心配に及びませんわ。それよりも、これからの伯爵のご活躍も、期待しております。では……」
会釈すると、ベールの女性はゆっくりとその場を後にした。すぐ先の角を曲がり、彼女の姿は見えなくなる。

「いやあ……」
(朝から、良いものを見た)
いやいや、"もの"などと言っては、あの美しい人に失礼か。
話し方も優しいあの美人が、まさか自分を知っていてくれたとは。あんなに素敵な女性と話せるならば、たまには居酒屋に置いて行かれるのも悪くは無いか……いや、毎回では困るな。
ああ、失礼を承知で、あのベールの下の素顔を見せてもらえば良かった!

思わず頬が緩んでしまう伯爵の足取りは、表情と裏腹にかなりしっかりしたものに変わっていた。


例の角を曲がった後、ベールの女性は、馬車を走らせていた。
「ま、本当はののしってやっても良かったけど。でも―」
ベールの下で、にやり、といった笑みを浮かべる。悪戯を思いついた、子供のような笑み。先ほど、ローシュフォールと話していた時には、決して見せなかった表情。
「”全部さらっとセーヌの水に流す”んでしたわよね、アトス様」
そんな彼女の呟きは、馬車の音にかき消されていった。

伯爵が家へ帰り着く頃。彼女がパリの街を抜け出した頃。
路地にいたあの鳥たちは、大空へ向かって一斉に飛び立っていった。



後書き
劇場版に出てきた、フランソワお墓参り前の、パリの朝を想像してみました。ベールは、到着した頃ぽいっとしたのでしょう(笑)。

伯爵とばったり会っちゃったアラミスでした。これがアトスだったら大変な事になってそうですが……まあ、ローシュフォールなら分かんないだろう!と(笑)。
ジュサックってば、なんで置いて行ったりしたんでしょ…かついででも連れて帰るとかしなかったんでしょうかね。しかも、有名人のロー様が居酒屋で飲みつぶれてて、誰かに命とか狙われたらどうするんでしょうか…とか心配もありますが、まあ、ロー様なら大丈夫!風車にはりつけにされても生還できたんですもの!(めちゃくちゃ)
最後のアラミスの呟きは、46話のアトスの台詞からです。あと、年のころ24〜25歳に見えたっていうのは、アラミスって大人っぽいよなあ、という私の思いからです。 (2010/12/29)