魔女の帰還


彼の声を聞いた瞬間、ミレディーは自分でも驚くほど、体が震えた。
彼女にとっては、温かく、憎らしい声。第一声で、すぐに彼だと分かった。
そして次の言葉を聞いた時、彼女の鼓動は更に大きく揺れたのだった。

「こちらに、マスクをした女の人が来ていないでしょうか?」

ミレディーは、彼が誰を探しているのか、すぐに悟った。
"マスクの女"ではないという事を。彼は確かに、"ミレディー"を探しているという事を。
(二度と姿を見せないと約束した女が何故、ってところかしら……相変わらず、信用がないわね)
物陰に隠れた彼女は、ほくそ笑んでいた。

ナナの目配せに促されたミレディーは、ゆっくりと姿を現した。足音を立てずに扉へ向かって歩く。
勢いの良い水の音を聞きながら、静かに扉を開いた。
彼女は部屋の外に体を滑り込ませ、振り返る。
彼は、顔を洗い続けている。その視界には、まだ何も、彼女の姿も、映っていない。ミレディーは、必死に顔を洗う彼の背中を見つめた。
(……少し、背が伸びたのかしら)
それから、彼女はゆっくりと、扉を閉めた。


ミレディーは気配を殺し、足早に劇場を後にした。
彼女は、近くに他の銃士がいるのではと警戒した。細心の注意を払いながら、足を進める。
(思っていたより、早く私に近付けたのね)
外はすっかり暗くなっていたが、人通りはまだ多い。
(……思っていたより、早く……?)
ミレディーの足は止まる。
彼と再び会える事を、自分は無意識に望んでいたのだろうか。そんな疑惑が彼女の中で沸き起こる。
しかし、すぐに自虐的な笑みを浮かべた。
(そうよ。貴方に会いたかったわ。二度と会わないと約束した、貴方に)
ミレディーは再び歩き出す。賑わっていた通りは、少しずつ寂しくなっていく。
彼女の向かう先には、馬車がひっそりと待ち構えていた。装飾こそされていないが、大儲けをしたばかりの塩商人が乗るには、充分しっかりしたものだ。
だが、この馬車が向かうのは"真っ当な塩商人の屋敷"ではない。"一度死んで生まれ変わった"彼女が、新しく生きる場所へ向かうものだ。
(甘ったれた坊や。『約束』なんて、金が関わらなければ意味なんかないのよ)

もしも、彼が自分と会いまみえる日がやってきたら。
彼はどんな顔をするだろうか。どんな言葉をかけるのだろうか。恋人の記憶をなくした事を責めるだろうか。約束が違うと腹を立てるだろうか。
そんな彼の姿を想像すると、愉快で、苦しい。それにミレディーは、思わずくすりと笑ってしまうのだった。
もしも、彼が自分と会いまみえる日がやってきたら。
否、それは必ずやってくる。予感めいた思いが、彼女の中で沸きあがっていた。

彼女が馬車に乗り込むと、すぐに馬がいななき、走り出した。それは劇場へ戻り、静止する。扉が開くと、マンソンが乗り込んできた。
開いた扉から、観劇を終えた貴族たちの姿が見えた。彼らは皆馬車を待っているのだろう。きらびやかな服をまとい、満足気に談笑している。
その中に、彼の姿は見えなかったが。
(受けて立つわ。私を生まれ変わらせてくれた事や助けてくれた事。全部、とことん後悔させてやる)
扉の閉まる音を聞きながら、ミレディーは小さく微笑む。歪んだ希望と決意を乗せ、馬車は再び動き出すのだった。


後書き
ナナの楽屋から出る時の、あの無表情でダルを見てるミレディーさんが好きで、「あの時何を思ってたんだろー」というところから考え出した話です。"二重引用符"が多いですね。
若干ミレディーさんがツンデレの気がしないでもないです(笑)。ダル&ミレのコンビ(?)も大好きです。  (2010/08/16)